2010年9月15日水曜日
再び、ロスアラモスへ
ロスアラモスのミュージアムへ行ってきました。
初めてのロスアラモスは、こちら。広島 長崎 Hiroshima Nagasaki
先ずは、個人が所有する小さな方へ。
木造りのアットホームな雰囲気を醸し出す建物です。
実は、もと学校の一部でした。
科学者の目を通しての展示が大半を占めていました。
核の研究、原爆の開発製造という、最先端の科学技術(とも呼ばれる)に携わる、選ばれたエリート集団。
聞かされていた使用目的とは違った、広島長崎への原爆投下に、心を痛めたという彼らの記事もありました。
広島の焼け野原の写真が、大きく展示されています。
次に訪れたのは、政府管轄のもの。
大きくて立派な建物の中は、ボタンを押すと映像と音声が流れるものや、手で触って体験できるものなど、ハイテクミュージアムです。
終戦のため、平和のため、原爆投下は不可欠であったと。
そして、アメリカの高い科学技術の素晴らしさを謳っていました。
この、とても対照的な建物と展示を後に、原爆が開発製造された場所、現在は美しい湖を、眺めていると、見聞きした展示が私の思考の中に戻ってきては、ぐるぐると、循環していました。
誰しも、その時々、歴史において、属する集団において、被害者ともなり、加害者ともなる、ということを。
そして、過去の事実から、私達は多くを学び、現在と未来は、その過去と学びから繋がっていく、ということなどを。
ここロスアラモス、昔は、野生そのままの美しい土地でした。
アメリカの原子爆弾開発製造の国家計画、「マンハッタン計画」の施設が建設されるまでは…
ある一人の男性が、この大自然と共に学べる学校を建てたいとの夢を叶えていきました。
寄宿制の男子校です。
乗馬、川での水泳、庭作り…机上の勉強と共に、この土地ならではの教育が存分にカリキュラムに組まれていたようです。
政治家や作家など、数多くの有名人も卒業生の中にあります。
男子学生らが泳ぎ、馬と走っている最中の1942年、マンハッタン計画の研究所がロスアラモスに置かれることが決まりました。
学校は、閉鎖。
その後、次々と、研究施設が建てられます。
マンハッタン計画は極秘計画だったので、ロスアラモスの地名はもちろん、そこで暮らす科学者や技術者のことも全く表に出ることはありませんでした。
彼らの住所は、ロスアラモスではなく、サンタフェ。
そして、彼らへの郵便物は全て、サンタフェの、とある住所へ。
そこには事務所が置かれ、勤務する数千人分の郵便物が届けられ、そこからロスアラモスへ車で運ばれていました。
ロスアラモスへ入るには、もちろん、身分証明書を見せての厳重なチェック。
特殊な土地、施設での暮らしを考慮し、パーティーなどの娯楽も、頻繁に催されていたようです。
1945年、広島と長崎に原爆が投下され、マンハッタン計画は終了。
殆どの科学者や技術者は元の場所へと戻っていきました。
しかし、少数人が、ロスアラモスに残り、原爆の開発製造を続け、その後、更に12年間、ロスアラモスは極秘の土地のまま、表に出てくることはありませんでした。
今現在のロスアラモスは、道路やお店、レストランなどが整備され、大学の町といった雰囲気です。
世界各国からの研究者達が、颯爽と道路を横切ります。
町の中心部にある観光センターでは、かなりショックでした。。
他のセンターと変わらず、観光情報の他、Tシャツ、マグカップなどが販売されています。
そのロゴが…キノコ雲を背景に「The Atomic City(原子爆弾の町)」。
そして、この観光センターから見える所に、「Origami(折り紙)」という日本料理のレストランがあります。
サンタフェへの帰路、前回同様、山間を抜ける裏道を通りました。
大地が、大空が、ただただ目の前に広がります。
キャメルロック
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